今日の漢字760は「故」。何故(なぜ)の気持ちを忘れていないか
今日の漢字は「故」。故障、事故、縁故、故人、故事。
歳をとると、「何故(なぜ)?」「どうして?」「なんで?」の数が極端に減っているように思う。
子供がいる人なら誰もが経験する儀式、それは、子供から質問攻めに合うこと。
だいぶ昔で忘れてしまったが、息子が幼稚園児の頃、毎日のようになんで?を連発して質問攻めにしてきた。見るもの聞くものなんでも新鮮な彼は、好奇心旺盛で、知りたい欲望をぶつけてきた。息子と娘の比率でいえば、息子の方が圧倒的に質問魔だったように思う。男の子の方が好奇心が強いのかと思ったものだ。
しかし、大人になると「なぜ」の気持ちが減る。ほとんどのことを知っていると達観してしまうのか、知ることが面倒臭いのか、ネットで調べればいいと思うのか、疑問を持つというアクションが減つているように思う。
「まわりの人が、ニューシネマパラダイスはすごいいい映画だから見たらと言われたので、見たんですけど、全然感動しませんでした。私っておかしいのでしょうか。なぜ感動できなかったか教えてください」
このような質問を平気でしてくる女性も凄いが、この質問に対して「自分の心に聞いてみろ」と思うのはあまりに乱暴。「なぜ」を見つけようとする純粋無垢な女性の気持ちを察するべきなのかもしれない。それと同時に、純粋に「そんな質問をする感性が凄い」と感心すべきなのかもしれない。
作家の辻仁成氏は、そうした「なぜ」に対し、「もしかすると長生きすることに、この「なぜ」という疑問が重要な役割を果たしているのではないか」という。「なぜ、どうしてと疑問を持つことが実は人間を生かす大きな原動力になっている。子供は、なぜ?とキラキラした目で聞いてくるのは、生きることへの初期衝動があふれているから。なぜなのか、と疑問を持つからこそ、人は前に向かって生きていくことができるのだ。ある病院では、病室に摩訶不思議な抽象画を飾っているという。患者さんはその絵を毎日眺め、この絵は一体何を伝えようとしているのか、何を訴えようとしているのかを考えるようになる。絵の意味を想像することで無意識に生きようとするのではないか」と述べている。
「謎の正体を暴くまでは死ねない、という探求心を持つことが、その謎をとことん解いてやろうとの動機につながり、生きる意欲につながる」と締めている。
思えば、哲学者はいつも思惑にふけっていた。「なぜ人は生きるのか」。そのような崇高な疑念に対し、なかなか解決する糸口は見いだせないが、身近に疑問をもつべき対象は無限にある。子供はそれに直ちに気づくから聞いてくるのであり、大人だって童心に帰ればできないことはない。世に溢れる新書のタイトルを見ても「なぜさおだけやは潰れないのか」に代表されるように、疑問形のタイトルのオンパレード。その疑問を解くきっかけを書籍は提供しているのであり、その疑問にひっかかるなら本を読んで勉強できる。好奇心と探求心という子供心に戻って人生を楽しむ方法を見つけたいものである。それが生きるバイタリティにつながる。