今日の漢字398は「号」。新聞の号外に人は魅了されるのか
漢字は「号」。号砲、屋号、号令、元号、暗号、記号。
大手新聞社が街角で号外を配るということがある。最近でこそ新型コロナウイルスの関係で人が集まるような所で号外は発行されていないが、「東京オリンピック延期」などは、コロナがなければ間違いなく号外が配られていたであろう。
従来から、東日本大震災、東京オリンピック決定、元号の決定など、国民の関心が高いニュースがあれば、街角で号外が配られる。それを後世大事にとっているマニアもいると聞く。
しかしこの新聞の号外。本当に必要なの?という疑問が沸いてきた。
なぜなら号外を受け取れるのは、駅前や繁華街など、ごく一部の限られた場所。しかも号外を受け取れるのは、たまたまそこを歩いていた人。時間帯も不定期で、いつ配られるかわからないから、私のようなサラリーマンが受け取るのはまず無理。号外は偶然の出会いでしか受け取れない。新聞社の玄関の前で今か今かと待つ輩がいるかもしれないが、そんな暇人でもない。
インターネット全盛の時代、紙の需要も根強いのは分かるが、ネットの速報ニュースの方が余程早いし、スマホの登場で、ニュースは逐一チェックできる。号外でニュースを初めて知るというお気楽な人が一体どれくらいいるのだろうか。
確かにインターネットがない時代はテレビ、ラジオ、新聞しか情報入手手段はなかった。
だから街角で号外をもらって初めてニュースを知るということもあった。しかし号外によらなくても簡単にニュースを知れる時代。新聞社はいつまで昭和遺産の号外を出し続けるのか、とても疑問に思う。
新聞社の立場に立って号外を出す意味を考える。
一つは、新聞社のPR。「うちは世間の注目を集めるこの事件を、いち早く印刷して配れる会社です。だから新聞っていいでしょ。購読してね」
二つめは、ネットメディアとの差別化。新聞は号外でもスペースは結構有るから、解説記事のような詳報を載せられるほか、写真も大きく掲載できる。これはネットにはできない。
三つめは報道を大きく見せられる相乗効果。テレビのニュースで必ず映像で流れる、号外の発行とそれを手に取る市民の様子。それほどドデカイニュースであることを、テレビと新聞がメディアスクラムを組んで、ニュースを大きく見せ、より注目を集めようと仕向けている。(おそらくテレビ局は新聞社に事前に号外の配布時間と場所を聞き出しているのは、間違いない)
一方ネットメディアの方は、速報性では圧勝しているものの、ヤフーニュースのように、テキストに文章が表記されているだけでは、ニュースの軽量、大小が今一つ伝わらず、そこはネットメディアの弱点でもある。しかし、それを補完する役目がツイッターで、大きな事件が起きれば、リツイートであっという間に拡散する。それがイコールニュースの重大さを判断する基準にもなる。
インターネットニュースプラスツイッター攻撃には、新聞社の号外はとても太刀打ち出来なくなっている。
オワコンと言われる新聞社の生きる道がどこにあるのか。号外のようにいつまでも成功体験にこだわるようでは、いつか本当に淘汰される時が来るのではないかと少々心配である。